2016年10月24日月曜日

さくまう(作間ふ)

 鳥取市の南部、岡山県境に佐治(さじ)というところがあります。中国山脈の北側の谷間で佐治谷と呼ばれます。司馬遼太郎さんの「街道を行く」(全43巻)の第27巻「因幡、伯耆のみち」の冒頭に、極めて個性的な佐治出身のお医者さんの話が出てきますが、昔は交通不便な土地柄からか、かえって個性的な人物が輩出されるところでもありました。

 ここには「佐治谷のだらず話」があります。「だらず」とは「バカ」の意味で「足らず」から来ていると言われます。例えばこんな話です。「佐治の男が湖山池を見てその広さに驚いて『日本は広れえなあ』と感心した。するともう一人の男がこう言った。『だらずだ!日本はこの池の3びゃあ(倍)はあるわい。』湖山池は鳥取の西にある日本最大の汽水池です(広さ6.99㎡)。

 私には佐治出身の義理の兄がいました。大好きな人でしたが、数年前に亡くなりました。この兄から不思議な方言を聞きました。「さくまう」、旧仮名遣いで書けば「作間ふ」です。農繁期の間の農閑期が「作間」ですから、次の農繁期に備えて農閑期に段取りをしておくことを言うのが原義だと思うのですが、佐治の方言では特化した内容になっています。


 何か仕事をする前にトイレに行っておく、大を出しておくという意味で使うのだそうです。なんとも良い表現です。気に入ってしばしば使用しています。子供たちにも「出かける前にちゃんと作間っておけよ」と言えばスマートに聞こえます。昔の僻地はもう便利になっていますが、まだ都会風に汚染されぬ良さがこの佐治谷には残っていて好きなんです。

鳥取(東部)地震

10212時過ぎ、私は本町のあるビルの3階に居ました。突然事務所中に警報音が響き渡り、スマホが鳥取中部地震の緊急情報を伝えました。間もなく部屋はゆらゆらと揺れ出しました。震源は鳥取県中部、倉吉市と私の本籍地である湯梨浜町付近だと言っています。親せきや知人の顔が次々と浮かんできて、すぐ電話をしましたがつながりません。

不意に私が国民学校2年生の1943年(昭18年)に起こった鳥取大震災(鳥取東部地震)の悪夢を思い出しました。私の命拾い第1回の経験です。その日は91017時半頃。「20世紀梨の初物を受け取りに来て」と、おなじみの八百屋のおばさんが私に声をかけてきました。私は兄とともに床下に生まれた仔犬を引っ張り出したところでした。

門前で防火用水用のバケツに梨を入れ、引き返そうとしたとき、突然ゴーという地鳴りと土煙があがり、私はひっくり返りました。おばさんのリヤカーの上に前の家の小屋が倒れかかるのがチラと見えましたが、直ぐ何も土煙の中で見えなくなりました。それからの記憶は断片的です。母親らとの再会も、八百屋の娘さんの母親探しの来訪もぼんやりしています。


 約1時間後「どこにも居ない」と泣きながらまたやって来た八百屋の娘さんに、前の小屋の下敷きになっているとやっと話せました。総動員で掘り出したおばさんは即死状態だったそうです。母に厳しく叱られました。早く皆に言えば助かっていたという状況なら、一生お前はその重荷を担わねばならぬところだった。「男の子ならもっとしっかりしなさい!」と。

食べてすぐ寝ると牛になる

 私の両親は諺(ことわざ)や格言が好きで、日常生活でもよく使っていました。母親の場合は、子どもの頃に子どもがいない本家の養女に出されたこともあって、諺好きの実父と実母が日常的に使っていた諺を思い出して身に着けたようです。父は一ひねりしたような格言や、有名な句を捻って遊ぶのが好きでした。

 兄も私も格言好きになり、ずいぶん得をしました。有名な百人一首に出てくる藤原の実定(さねただ)の歌「ほととぎす 鳴きつるかたを 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる」を一ひねりした歌「ほととぎす 鳴きつるあとに 呆れたる 後徳大寺の 大臣(おとど)の顔」が好きでした。私の座右の銘も親譲り。「沈香(じんこ)も焚け、屁も放け(こけ)」

 沈香はジンコウより「ジンコ」と読まれることが多い香料で、高級品の伽羅(きゃら)が有名です。要は香を焚くような高尚なことも、屁を放つような下品なこともやる幅のある者になれということです。一方母からは、「食べた後、直ぐ横になると牛になる」とよく叱られました。食後直ぐに寝るのは行儀が悪いという意味としてずっと理解していました。


 最近、食後に直ぐ横になるのは、健康に良くないのだという医学記事を見つけました。食後すぐ寝ると血糖値が急激に上昇し、繰り返していると糖尿病になりかねないのだそうです。へえー、行儀の問題だけじゃないのだと、別の諺を思い出しました。「親の意見と茄子(なすび)の花は千に一つも仇はない。」(この「意見」は小言(叱言)の意味でしょう。)

故郷の廃家

 「幾年(いくとせ)ふるさと来てみれば/咲く花啼く鳥そよぐ風/門辺の小川のささやきも/なれにし昔と変わらねど/あれたる/わが家/住む人絶えてなく」アメリカのウィリアム・へイス作曲の「My Dear Old Sunny Home」に犬童球溪(いんどう・きゅうけい)が作詞して1907年に発表された歌です。私が子供の頃にはよく歌われたものです。

 私の故郷は鳥取市です。本籍地は、鳥取県東伯郡湯梨浜町はわい長瀬。「日本のハワイ」と呼ばれた羽合温泉で有名なところです。古くは伯井田(はくいだ)という地名が、秀吉の時代頃には「羽合田(はわいだ)」に変化したもののようです。ここに大地主であった祖父が大きな屋敷を建てていましたので、私たちはふだんは鳥取市内で借家暮らしでした。

 終戦後占領軍が出した農地解放令により地主であった祖父は没落して、その大きな屋敷は取り壊されて敷地は人手に渡りました。小学生時分には、私は夏休みや冬休みにこの広い家で過ごしたものです。しかし、歌の歌詞のように残っているが誰も住まなくなった廃家になっているより、姿を消してくれている方がさっぱりして良いと思っています。


 村の様子もすっかり変わってしまい咲く花も啼く鳥も、変わりました。一番変わったのが小川の様子です。周りの農家は井戸がなくてもこの小川で食器も汚れものも皆洗っていました。流れも透明でした。今は水道が引かれ、川の水も暗くよどんでいます。多分に感傷的なこの故郷の廃家を歌う雰囲気は、今ではどこにも残っていないように思えます。

私の父の生涯

 親父は京都帝国大学経済学部卒業でした。これは我々兄弟にとっては大きなプレッシャーでした。京大を出なければ一生親父に頭が上がらないぞと脅されていたからです。後でわかったのですが、親父の時代は、旧制高校は結構難関だったが、大学は無試験だったのです。「脅かして学費の安い国立に行ってもらおうと思っただけだ、ワハハハ」でおしまい。

 米糠3合もあれば婿養子には行かぬものと悪口を言われながら、農村の大地主の婿養子にやられ、県庁の土木部雇い(今の臨時雇い)から始めて、鳥取大震災の後片付けを経験し、兵事厚生課長という妙な組み合わせの仕事をして終戦を迎えました。進駐軍に対応するため戦後は渉外局長に抜擢され、苦労をしたようです。

 鳥取のような地方では、情報不足でどんなことか起こるか予測できないため、監獄から応召した犯罪者により組織された部隊が、偵察隊として派遣されていたようで、無茶な要求が出されたそうです。渉外局長の親父は「OK!OK!放っておーけー」と怒鳴ったようです。しかし進駐軍の要求は常識を超えて次々エスカレートしたそうです。


 「この要求はあなた方も承知の上か?!」とGHQへの親父の怒鳴り込みを待っていたように、犯罪者部隊に代わり紳士的な部隊が進駐してきたそうです。こういう話をもう少しきちんと書き留めておくべきでした。民選知事制度が始まると県庁を辞めて、GHQに追放された地方紙の社長に代わって「雇われ社長」になり、還暦の3日前に亡くなりました。時代に酷使された一生でした。

待機電力退治の抜け穴

 今ではあまり話題になりませんが、昭和末期にはスイッチを入れるとすぐにテレビの画面が現れるような便利さを優先させるため、電気器具の不使用時でもずっと少量の電機を流し続ける仕組みが常識になっていました。特にテレビ、電気蓄音機などは使う時間がわずかでも、眠っている大半の時間でもこの「待機電力」を使い続けていたのです。

 この待機電力退治をどうすればうまく進められるかが問題でした。メーカーを含む企業の協力で運営されている公益的団体で私が責任者になり待機電力退治をすることになりましたが、実態をいきなり公表すれば、企業側から反発が出るのは必至です。そこで昔「暮らしの手帳」が、電気器具の比較テストを発表したやり方を少しヒネルことにしました。

 冷蔵庫やテレビなど主要機器の待機電力量を調べ、各社にそれを送って、「待機電力を減らすために、まずこの現状の数値を発表させてほしい」とお願いしたのです。すぐにS社から反応がありました。「1年間猶予下さい。その間に待機電力を減らした新しい改良型機種を創りこれを発表するので、その改良した数値と併せて発表していただけませんか。」


 この提案を各社に示すと全社がご了解くださり、待機電力減らしに各社が努力をされ、1年後に大きな成果が生まれました。ところがガス湯沸かし器は種火方式から電気スパークに着火方式を変えていたのを見落としていて、さらに電動歯ブラシなど中小企業製品が依然として待機電量垂れ流しであることに当時は気づかなかったのです。スミマセン…。

ブラジル訪問の思い出

 パラリンピックも終わりましたが、会場だったブラジルにはそう簡単には行けません。私は25年くらい前に一度だけ行きましたが、アメリカのロスを経由して丸一日以上かかりました。リオに着いてまずコルコバードの丘に立つキリスト像に感心しました。9.5mの台座を含め高さが39.6mもあり、1931年に独立100周年記念として創られたのだそうです。

 私の生まれた時より4年前ということと、ニューヨークの自由の女神像と同じくフランス製で頭までの高さが同じくらいということで記憶が残っています。ここから海岸沿いに西南に日本人が多いサンパウロがあり、さらに西南にドイツ人移民が多いクリティバという町があり、そこに行きました。放射線状に道路が広がり、中央に市役所がありました。

 蜘蛛の巣状の町には電車はなく、縦糸状の道と環状の道にそれぞれバスが走っていて、道に迷うことなく目的地に行けたのに感心しました。日本人のお役人がいらっしゃったのには驚きましたが、おかげで事情がよくわかりました。勧められてここから西のイグアスの滝とその上流にある巨大な(世界2位、1400㎾)イタイプー発電所を見学しました。


 イグアスの滝はブラジルとアルゼンチンとパラグアイの3国の国境の交差点にあり、その上流パラナ川にあるイタイプー発電所はパラグアイとブラジルの共同のものでした。大きなダムで水没した場所に住んでいた動植物が、「環境難民」として保護されて、新しい住処を創ってもらうのを待っていました。狭い日本の常識外の世界が広がっていました。