2015年10月5日月曜日

80歳になりました

 とうとう80歳になりました。犬の年齢に換算すると16歳だそうです(笑い)。先日ヨタヨタしている犬を散歩させている方に、「だいぶ年を召しているようですね?」と声をかけると、「間もなく16歳になります。人間でいえば80歳です。」との答えが返ってきました。「私と一緒ですな。」と言いかけて、やめました。私はピンピンしているのに、私に失礼なことを言ったのではないかと相手が恥ずかしがるといけないと思ったからです。(多少私が優越感を持っていましたかな?)
 
 年齢80歳の人が「熱中症で倒れた」「高速道路を逆走した」「風で拭き倒された」と新聞にあると、80歳の人は皆そういう危険性があると思いがちですが、個人差が大きいのがこの80歳の体力です。「片足立ちしたまま靴下が履けるか?」と言われると…、「やったことがないですな。ズボンやパッチは立ったまま履きますが。」と答えます。
 
 誰かが言っていましたが、80歳と言えばサッカーでいえばロスタイムに入ったのだそうです。私は自分の過去を顧みて、幼児期、大学までの学齢期、定年までの仕事期、80歳までの第2仕事期を過ごしてきたので、これからは社会奉仕を含む遊び期だと思っています。まだロスタイム意識はありません。それには健康でなければなりません。
 
 平均寿命は今年7月の発表では、男80.69歳、女86.83歳です。これは今年生まれた赤ん坊が平均何年生きられるかという意味だそうです。80歳の人があと何年生きられるかという「平均余命」は、男が8.13歳、女が10.8歳です。ところが健康寿命つまり介護なしで自立して生きられる年齢の平均はというと、平均寿命より男で9.1歳、女で12.6歳くらい低いのです。これくらいの期間は介護を受けて生きているということのようです。まあ、平均余命の88歳を目標にして、それより早く死ぬことになったら、ピンピンコロリが実現したと思いましょう。因みに88歳の男の平均余命は5.87歳です。では米寿・88歳を実現したら、次の目標は母親が死んだ93歳にしましょう。
 
 どうせ人間は死ぬのです。いつ死ぬかを考えても意味はありません。「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」(良寛)…。まあここまで悟るにはだいぶん修業が要りそうです。友人の山田杜皐(とこう)に宛てた見舞状の中で使われた言葉です。災難に遭った人の見舞いの文章とは思えませんが、それだけ杜皐さんと親しかったのでしょう。
 
 良寛は
   「惜しめども 盛は過ぎぬ 待たなくに 止めくるものは 老いにぞありける」
   「ゆくりなく 一日二日をおくりつつ 六十路あまりに なりにけらしも」
という歌も残しています。良寛の頃には60歳でこういう老境の感じ方であったのでしょう。古文から遠ざかること半世紀になりますので、正確には現代文に直せませんが、前の歌は「いくら無くしたくないと思っても、盛りは過ぎてしまった。そうなるのを待っていたわけではないのに、いろんなことをできなくするのは老いであった。」
 
 次の歌は、「特にどうというつもりもなく、一日二日と過ごしているうちに、60歳余りになってしまったのだなあ。」とでも言ったらよいのでしょうか。六十路(むそじ)を八十路(やそじ)に直せば私の心境のようですが、本当のところは良寛さんの歌に比べると、私は悟っていないのか老いていないのか、まだまだというところです。
 
生かされている以上、私なりに元気に過ごしたいと思っています。介護されている人をとやかく言うのでなく、誰もが健康年齢を伸ばして長生きしてほしいし、介護を受けている人たちも、生きがいを持てるような手伝いをしたいと思っているところです。

変わりゆくトイレ

 「あんたの話は、生きるの死ぬのと言った途端にトイレの話に変わる。ついて行かれへんわ。」古い友人がブログを見てこう言って笑いました。「トイレに行きたくても行けなかったら、死にたくなるやろ。」と茶化しておきましたが、実際トイレは時代によってずいぶん変化しています。十二単(じゅうにひとえ)の重い衣装を着ていた平安時代の女性は、どうしてトイレに行ったのでしょう?江戸城に詰めていた大名は、長袴(ながばかま)を穿いていましたが、前にチャックもボタンもありません。どうやっておしっこをしたのでしょうね?

 私が聞いたところでは、蓋付きの箱、おそらくは漆塗りのものを裾から滑り込ませて、衣の上から蓋を取り、用を足してから蓋をして下から取り出したのだそうですよ。そういえばウンコのことを「ハコ」と呼ぶ地方がありましたが関係があるのかな?専門家でないのでわかりませんがね。

 江戸城のお大名は、茶坊主に耳打ちすると、茶坊主はお供の控え室近くで「井伊掃部頭(かもんのかみ)様御用!」と呼ばわり、呼ばれたお供の者は縁側の外で膝をついて筒をささげる。掃部頭は縁側で長袴の右か左かをパッと蹴り出し、お供が下から差し入れる筒を局部にあてがい、小便をしたのだそうです。いやはや大変ですな。これもトイレに行くのを「用を足す」とも言いますね。頻尿症だと隠居をせざると得なくなるでしょうねえ。

 庶民にとっては、便所は戸外にあるもので、下駄を履いて行くところという時代が長かったようです。商家の屋敷では家の住居部からは別棟として台所や風呂場や便所などを取り付ける「下屋出し」の方式で作られ、これが明治以降次第に広まったようです。「雪隠の/屋根はおおかた/への字形(なり)」の古川柳にあるスタイルです。ここでも便所履きがあるのが普通でした。この下屋出しは水を使う場所で行われ、早く痛むので母屋(おもや:主棟)より早く修理と建て直しをしたようです。便所は水洗いするのが普通でしたから。

 便所履きをなくする試みは昭和30年頃の住宅公団の団地で始まりました。トイレと風呂を同じ部屋にする欧米型の1DKが作られたのです。しかし、これが不評で結局このスタイルは広がりませんでした。こういう伝統というか習慣を変えるのは結構大仕事です。トイレに水を流すのは、古来「ケガレを洗い流す」必要があったからです。「洗う」は「あらふ」=「新ふ(新しくする)」です。結論から言うと、日本の住まいは雨の多い気候から履物を脱いで家に入る方式が基本にあり、江戸期に畳が一般化すると、廊下履きを脱いで上がる一段上のランクの場所になりました。
その結果、⑤戸外・便所、④廊下、③畳、➁食卓、①食器という無意識のランク付けが出来上っているのです。茶碗布巾で食卓を拭いてはいけないし、食卓布巾で畳を拭いてはいけないのです。当然雑巾の世界の風呂と下(しも)雑巾の世界のトイレを一室にするのには大きな抵抗があるのです。ところがそのトイレが水洗方式になり、お尻洗い(ウォッシュレット)が導入されたとき、トイレ履きがだんだん不要になりだしているようなのです。

 昭和期のトイレは大概タイル張りでした。床や壁に水を流して洗うのが掃除のやり方だったからです。それがウォっシュレットの普及に並行して板張りになってきました。洗うのでなく拭くか、じゅうたんを敷いてそれを洗うかを前提にし出したのです。ただそれには男の人に跳ね返りのないおしっこの仕方をしてもらわなければならないのです。前にこぼさないようにするだけでなく、便器から跳ね返らないようにしてもらわなければならないのです。

 以前の男子用小便器は全面の便器の壁に向けて小便をする形であったのですが、壁から約12cmの距離から水を飛ばすと跳ね返らないのだそうです。でも、このウォッシュレット型の便器はかなり上から落下させる形であるため、座ってやらない限り跳ね返りが避けられないのです。まだ座って小便をする人と立ってする人の割合を調べた調査は出ていませんが、かなり数の男性が座っておしっこをしている(することを強いられている)のです。

 先日小林一三さんの旧邸を拝見したら、風呂の中に洋式便器がありました。聞いてみたけどいつからこういう形になったのか、係員の方も知らないということでした。