2016年10月9日日曜日

痔を病んだ大仏さま

鎌倉の大仏様が数か月に及ぶ全身の点検を無事終えて、清掃も行われたという記事をこの春に読みました。この大仏様は鎌倉で唯一の国宝ですが、1252年頃に建立されたもののようです。当初は大仏殿に収められていたのが、台風で大仏殿が倒壊し、さらに数年後に大津波が襲って大仏様まで押し流されたのだそうです。

それで現在のような露仏になり、動かぬように固定されたもののようです。これは以前に東海大学のY教授にお聞きした話ですが、昭和30年頃にお寺から東大の材料研究所に相談があって、大仏様のお顔が急に変わったように見えるので原因を調べてもらえないかとのことだったそうです。それで一番新参のY先生が命じられて現場に行ったのだそうです。

お坊さんが口をそろえて、ある日突然大仏様のお顔が従来と変わったと訴えました。従来の顔を知らぬY先生には、雲をつかむような話で、困った挙句全身をくまなく点検したら、大仏様を固定するために鉄の杭が大仏様の後部に打ち込んであり、それが露仏さまですから雨露に濡れて錆が大量に発生して、大仏様のお尻を押し上げていたのでした。


大仏様の身体が前傾したためお顔の印象が変わったと判明したので、Y先生は手当てをしたうえで「大仏様が痔を病んでおられました」と報告して、不敬であると叱られたのだそうです。でも「大仏様痔を病む」と新聞に書いてもらってたらポケモン探しよりたくさんの参詣人が集まり、治療跡を見て大仏様好きが増えたのではないでしょうかねえ。

中学生ふたりが熊本の被災地で桃を配った!

 某民放のニュースを見ていたら、山梨の女子中学生二人が熊本の震災被災地で桃を無償で配っている光景が出てきました。何でも震災直後から被災地の人たちを支援する方策はないかを考えて、いろいろ資金を作りために苦労して、車で現地に運んで配ったのだという報道でした。もらった熊本の人たちは、桃の匂いで元気が出たと喜んでいました。

 良い話だなとは思いましたが、私には釈然としないものがありました。何個の桃を熊本まで運んだのかは報道されませんでしたが、車で山梨から運んだというからには、相当の数であっただろうし、中学の女の子だけでできる話ではありません。資金にしても相当な額になったはずですし、寄付だけでなく大人たちが様々な支援をしたに相違ありません。

 こういう活動によく関わっている山梨の知人にメールしてみると、案の定報道のニュアンスとは違っていました。震災の3日後にこの女子中学生たちから相談を受けた大人たちが、この女子中学生たちに大きな負担がかからないように知恵を絞り、桃の配布を考えついて目標金額を決め、様々なイベントを行って資金を作り、段取りをしたものでした。


 二人の女子中学生が報道されれば、支援話は報道されなくても大人たちは構わないとのことでした。でも女子中学生だけの報道は極めて不自然で、故に感動も乏しいのです。二人が相談したので大人たちがフルにサポートし、彼女たちを表舞台に立たせたと報道して、初めて感動的な話になるのです。報道は縁の下に光を当てるのも大切な仕事なのです。

外食券が必要だった時代

 外食券という代物があった時代を知る人は、もう結構な年寄りです。私が大学に入った1954年(昭和29年)には、米や外食券がないと外食が出来ない時代は終わっていました。それ以前には、出張時にも米を持って行かなと宿でごはんが出してもらえない時代があり、靴下にコメを入れて目立たぬように鞄の下に詰め込む父の姿を覚えています。

 しかし、まだ外食券があると5円か10円安くなる時代でした。蜆汁だと喜んでよく見たら自分の目が映っていたのだったなどという冗談が通用した薄いみそ汁が12円、外食券なしのメシが11015円、おかずつき1食が30円前後、1日の食費が100円、1か月の食費が3000円という時代でした。100円出すとナイフ、フォークで洋食らしきものが食えました。

 姉と結婚する前の義兄を学寮に泊めたお礼におごってくれたのがチーズグラタン。250円出すとこんなにうまいものが食えるのかと感激した覚えがあります。小学校6年の時担任だった先生を訪ねて大学1年の夏休みに北海道に行ったとき、1万円で1か月乗り放題の国鉄の切符を買ってゆきましたが、冷夏の北海道は食うものがなく往生しました。


 先生に釧路で160円のラーメンをご馳走になりましたが、晩御飯代わりに十分満足し、世の中にはうまいものがあるのだと、オーバーに言えば「生きる喜び」を知った最初の経験でした。そうです。当時は腹いっぱいメシが食えることが何よりも幸せなことであり、快適で便利になれば人は幸せになれるんだと単純に信じられた時代でした。

純粋な考え方の危うさ

 私は終戦時に価値観の大転換を経験して以来、純粋に一つの考え方を信じることが出来なくなったことを、以前ここに書きました。その考えを後押ししてくれた人が二人います。一人は大学の1年先輩の政治学者・故・高坂政堯(こうさかまさたか)さんです。天才肌の人で私のような凡才の近寄り難い存在でしたが、明確に教えてくれたことがあります。

 それは、「例外のない原則はない」「ある真実はその背景事情如何で成立しなくなることがある。」ということでした。だから、盲目的に何かを信じる前にいろんな吟味をしてみることに意味があると自信を持って言えるようになったように思います。この原則を成立させている要件は何か?と問いかける余裕を持たせてくれます。

 もう一人は私の私淑している故・山本七平さんです。私より14歳も年長の評論家でした。まるで私が信じて来た価値観を彼はいとも簡単にひっくり返してくれました。ユダヤ人の世界では「全員一致の事柄は無効になる」、「水と安全は極めて高価なものである」といったことに始まり、中国の古典から旧約聖書の時代まで実に広い知識をお持ちでした。


 山本さんご夫妻と親しいお仲間のイスラエル探訪に無理やり1週間同行させていただき、旧約聖書の歴史、思想を現地で学ばせていただきました。単なる神話の世界でなく、どういう時代背景からどういう思想が生まれたのか、学校では教われないことを学びました。お二人とも残念ながら「佳人薄命」。馬齢を重ねている私は、とても残念に思います。

保育園落ちた。日本死ね!

「保育園に落ちた。日本死ね!」投稿されたこのツブヤキのひと言が多くの人を動かしました。一億総活躍社会というけど、ちいさな子供を抱えて、保育園に入れてもらえなかったら、食べることさえできないじゃないか!これに共感した人たちが声を上げ、行動を起こしました。わずか1か月の間に国会でも取り上げられ、大きな問題提起になりました。

「日本死ね」とはいかがなものかと、批判する人もいました。多くは高年齢の子育てを終わった人たちでした。子供が出来ても働きたい、働かなければ食べて行けない、こういう切実な状況にストレートに共感した人と、反応に差がでたのは、仕方がないことだったかもしれません。批判層からも、理解をしようとする動きが出て来たのは何よりでした。

実は私は幼稚園に保育所を併設した認定子ども園の理事長をしています。定員100名ばかりの小さなところです。保育園の入園可否は、市町村が決定権を持っています。若い夫婦が多い地域では、共働きを希望する人が多く保育園に入れない「待機児童」が増加していますが、園も行政も「では収容人員を増やしましょう」とは簡単には言えません。


まして私のようなオーナーでなく、単なる無給の助っ人である理事長は、社会的要請があるから事業を拡大しようというような危険は簡単には冒せません。しかし、そう言い訳だけして何もしなければ、「日本死ね」を批判するだけと同じことになります。労働条件を良くし、良い保育ができる環境にすることに努め、定員を増やす方法にも悩んでいます。

2016年10月8日土曜日

暮らしの手帳でホットケーキ

 NHKの朝ドラ、「とと姉ちゃん」に出てくる「あなたの暮らし」という雑誌は、言うまでもなく「美しき暮らしの手帳」という1948年(昭和23年)9月に創刊された雑誌で、5年後には「暮らしの手帳」に改題されたものがモデルです。私は終戦時が国民学校(小学校)4年生でしたから、中学生の頃にはよくお世話になりました。

 昭和8年生まれの姉を頭に、同19年生まれの妹まで6人の兄弟姉妹の3番目、次男でしたから、姉兄妹弟すべてが揃っていました。食うものがない時代でしたから、この暮らしの手帳に教えられてホットケーキを作ることを覚えました。コメの代わりに配給される小麦粉で、スイトンを作るのに飽き飽きしていた時に、ホットケーキは新鮮でした。

 小麦粉に牛乳と卵を入れて作るのですが、米の代わりに配給された茶色いキューバー糖と塩少々を入れます。市販のコッペパンも腹に溜まって良かったけれど、希少品のバター(進駐軍の放出物資)を入れると格別味も良くなり、腹持ちも良くなりました。コメのメシでない代用食さえも食えないで、昼ごはん抜きが珍しくない時代でした。


 編集長の花森安治さんは1911年神戸生まれの人で、ドラマに出てくるほど変わり者だったかどうか知りませんが、確かにスカートを穿いている写真を見たような記憶があります。66歳で亡くなっています。この頃と違って今は飽食の時代ですが、私はそんなに遠くない先に、世界は人口増加によってまた食料不足になるのではないかと懸念しているのです。

盲目的に信じられなくなった

ISの過激思想に憧れる10歳代の少女がフランスで後を絶たないと新聞が報じています。現代は信じられるものがないから、余計若い層に原理主義的な価値観に染まりやすいのだと言われます。残念ながら軍国主義的教育の中で優等生を目指した私は、国民学校4年生(9歳11か月)で終戦を迎え、信じていた価値観が一気に崩れ去る経験をしました。

 抽象的な理念の崩壊より、それをかざして小学生の私たちを教えた教師が、終戦後見事に転向しているのを見て、人にも理念にも信じる気がなくなりました。戦時中は、態度が悪い生徒を皆の前で殴って鼻血を出させていた若い男性教師が、私が戦後に疎開先から元の学校に戻ってみると民主主義をまじめに教えていたのには興ざめました。

 軍国主義的な考えはもうたくさん。戦後の混乱期に間もなくソ連軍がやってきてお前らは粛清されるぞと怒鳴った何とか思想もイヤ。さりとて民主主義を信じる気にもならないというのが、正直な気持ちでした。人を信じるのも簡単にそういう気にもなりませんでした。それを若い新人の先生が無邪気に楽しく接してくれてその気分を一掃してくれました。

 長じるに及んで弟妹を教えてくれているあの拳骨をふるった先生が、悪い人でないとわかり、複雑な思いの中で人間や思想への信頼を少しずつ取り戻し、現在は8~9割信じても、1~2割はそうでないこともありうるという妙な信じ方が身についてしまいました。盲目的傾倒をどこかで避ける自分を8~9割肯定しつつ嫌な奴だとも思っているのです。