2016年10月24日月曜日

私の父の生涯

 親父は京都帝国大学経済学部卒業でした。これは我々兄弟にとっては大きなプレッシャーでした。京大を出なければ一生親父に頭が上がらないぞと脅されていたからです。後でわかったのですが、親父の時代は、旧制高校は結構難関だったが、大学は無試験だったのです。「脅かして学費の安い国立に行ってもらおうと思っただけだ、ワハハハ」でおしまい。

 米糠3合もあれば婿養子には行かぬものと悪口を言われながら、農村の大地主の婿養子にやられ、県庁の土木部雇い(今の臨時雇い)から始めて、鳥取大震災の後片付けを経験し、兵事厚生課長という妙な組み合わせの仕事をして終戦を迎えました。進駐軍に対応するため戦後は渉外局長に抜擢され、苦労をしたようです。

 鳥取のような地方では、情報不足でどんなことか起こるか予測できないため、監獄から応召した犯罪者により組織された部隊が、偵察隊として派遣されていたようで、無茶な要求が出されたそうです。渉外局長の親父は「OK!OK!放っておーけー」と怒鳴ったようです。しかし進駐軍の要求は常識を超えて次々エスカレートしたそうです。


 「この要求はあなた方も承知の上か?!」とGHQへの親父の怒鳴り込みを待っていたように、犯罪者部隊に代わり紳士的な部隊が進駐してきたそうです。こういう話をもう少しきちんと書き留めておくべきでした。民選知事制度が始まると県庁を辞めて、GHQに追放された地方紙の社長に代わって「雇われ社長」になり、還暦の3日前に亡くなりました。時代に酷使された一生でした。

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