2015年9月24日木曜日

民族特有の文化が日常生活に現れる


 私たちの日常生活には、価値観を含む生活文化の影響が色濃く表れます。幕末から明治にかけて日本にやってきた外国人は、笑みを浮かべて近寄ってくる日本人を気持ち悪いと思いました。中国でも韓国でもこの微笑は共通していたので、オリエンタルスマイルという呼び名がつけられ西欧の人たちに気持ち悪がられました。
 
 小泉八雲の日本名を持つラフカディオ・ハーンも、女中が笑みを浮かべて近寄ってきて「父親が死にました」と言ったので仰天するとともに、この理解できない笑みを不愉快に思ったと書いています。日本特有の習慣に、贈り物をするときに「つまらぬ物ですが…」とへりくだって言うことになっていますが、なぜそんな嘘をつくのかと外国人には理解できないのです。
 
 
 私がこの手の文化の違いに大変面食らったのは、フランス人の信号無視と中国人の接待法の二つです。フランスで信号が変わるのを待っていると、二人のフランスの若者が私たちに何か声をかけながら、赤信号を平然と渡ってゆきました。そこにいる警察官も見ても知らん顔です。一緒に居たフランス人に「彼らはなんて言ったの?」と聞くと、笑いながら「『日が暮れるぞ』って言ったよ。」と答えてくれました。「ポリさんも見ても知らんふりをしてたねぇ」というと「いやフランスでは自己責任だから」との答えでした。「では、彼らが信号無視して車にはねられても、止めなかった警官は罪にはならないの?」と私。「なんで罪になるの?『馬鹿が一人減っただけのことだよ』」と彼。

 
つまり彼が私と一緒に赤信号で止まったのは、私に付き合っているだけで、一人だったら赤信号でも危なくなかったら渡っているということです。お隣のドイツで私が車の来ないのを確かめて赤信号の狭い道を渡ったら、そこに居たおじさんに叱られました。えらい違いです。中国人の接待では、世話になった中国人3人をお呼びして、一番奥の席に座ってもらい、私と通訳は入り口に近い席に座りました。「中国料理は皆さんの方がお詳しいでしょうから、何なりとご注文ください」と、気を利かせたつもりでした。主賓が仕方なしに註文して、皿が来ると自分の箸で左右のお伴に人の皿に料理を取ってやり、私の皿にまで取り分けてくれました。

 
 食べ終わり謝辞を述べて幕を引こうとした途端に、主役が大声で怒鳴り出したのです。通訳によると「それで金を払ってもてなした顔をするな、金は俺が払う。お前が払うというなら絶交だ。」と怒っているというのです。通訳に何故だと聞くと、「日本流の接待に慣れていないのです。中国ではもてなす側が一番良い席に座って、今日の主役がやったように、自分が註文し、客にもっと食え、これもうまいぞと自分の箸で客の皿に取り分けてやるのが作法なんです。」と答えたのです。その日は彼に支払ってもらい顔を立てたうえで、もう一度私が中国流でもてなすことを先方が了解して、和解が成立したのでした。

 今、日本の男性は座っておしっこをする人が増えてきています。昔は日本の田舎では女性が立ったままおしっこをしていました。私が疎開した田舎では、学校で女の子も男便所でこっちを向いて立ち小便、音の子は向こうを向いて立ち小便していて仰天しました。こういう生活文化の変化を話し合うサロンも楽しいかなと思い、企画中です。

2015年9月17日木曜日

本当のホスピス

本当のホスピス

 ブログの第3号で、ターミナルケア病院の「早く楽に死なせる」仕組みを書きましたが、もともと、終末期に痛みで苦しむことが多かったガン患者の終末期介護(terminal care)をするホスピス(hospice)が始まりです。

 日本では、大阪の淀川キリスト教病院に、1973年に柏木哲夫さんが開いたのが最初です。私も柏木先生から直接お話を聞き感激しましたが、もともとは中世ヨーロッパで巡礼者をもてなす教会の宿泊施設が始まりだそうです。

 病気で動けなくなったり、そこで亡くなったりしても、ちゃんと介護や死後の始末を聖職者が献身的にしてくれたのだそうです。ホスピタリティ(hospitality:親切なもてなし)という言葉や、病院のホスピタルという語もここから出たのだそうです。

 それが一部とはいえ、痛みを取り、早く死なせて上げる病院になってしまっているようで、実に情けない思いがします。しかし、本来のホスピスの精神を引き継いだ小さな診療所が私の故郷・鳥取市にあります。「野の花診療所」と言います。院長は徳永進さんと言います。

 もと鳥取日赤病院のお医者さんでしたが、患者さんのことを本気で考える人で、NHKのドラマの主人公のモデルにもされた方です。
 わずか19床の個室だけのちいさな診療所ですが、次の三つの言葉を掲げています。

人の悩みから出発する
患者さんの希望と選択を支える
昼の雲、夜の星を大切にする

 この③の意味は、あの昼か夜かもわからなくして、最後には生きているのか死んでいるのかわからなくするのと全く反対の立場で、どんな重症の人でも意識があれば、今日は雨ですよと窓をちょっと開けて外の雰囲気を感じてもらう、自然の中で生かされていることを肌で感じてもらい、今日も一日生き抜こうという気力を引き出すのだそうです。徳永先生ご自身からお話をお聞きして、これにも感激しました。

 ほかにも「死に向き合う為の診療所でありたい」、「生への希望を追うことと人生を振り返って懐かしむことの両方を成立させたい」、「良い日を過ごしたいと思う人に利用していただければ有難い」、「最後の日々を家で過ごすと決めた患者さんと家族を支えるのがこの診療所の使命だ」「いくつかの問題を解決すれば家での良い日は作ることができる。

 それを支えるのを『ホスピス運動』と呼び、これが広がることを願っている」などと書いていらっしゃいます。是非ホームページを見てください。これが本当のホスピスだと思います。

 実は私は老妻を老々介護中です。19年前にクモ膜下出血をして、自発呼吸が止まり、死を待つばかりになったのです。手術をしても大半は手術中に死ぬことが多く、成功してもひどい後遺症が残ることが多いので、手術はしないのが普通なのだそうです。

 それを無理に手術してもらい、奇跡的に軽い後遺症で済んだのです。でも加齢とともに様々な後遺症が出てきました。記憶障害、片目失明、嚥下障害、ふらつきなどで要介護二です。「障害が重くなり、手に余るようになって来たらお前は彼女を安楽死させたいか?」いつもその問いを突き付けられていて、今のところ「ノー」と言えています。しかし、本当に最後まで言い切れるか?と私は誰かから問い続けられているような思いでいます。

 生きることの意味を色んな人から聞くような機会もできないかなと考えて、色んな方のご意見をうかがっているところです。

2015年9月16日水曜日

幸福を演じて幸福になる

テレビの予番組でこの言葉が出てきたときには、反発さえ感じました。NHKの「助けて!極め人」という番組で、写真家の浅田政志さんが掲げた言葉です。でも、番組を見て納得しました。

 4世代13人が一つ屋根の下に住んでいて、皆で幸せな写真を撮ろうとするのですが、お爺ちゃんがどうしても笑わない。
 いや、笑い顔ができなくなっているのです。自分が家族のために何もできない存在になってしまった以上、できるだけ家族の負担にならないように暮らしてきた結果、笑うことも泣くこともできなくなってしまっていたのです。

 浅田さんはそれに気づき、お芝居のように筋書きを作り、服装からしぐさから全部指示してしあわせな姿を演じてもらったのです。初めはぎこちないしぐさと笑いであったおじいさんの顔がだんだんほぐれてきて、しまいには孫たちと大笑いした写真が見事に撮れたのです。

 「演じる」のは、ほかの人と非日常的なことを「共同の作業」として行うことだったのです。そして日常にも笑いが帰って来たのです。

 40年も前の話ですが、ある老人ホームに、一種の「安楽死装置」がありました。それは完全看護のスタイルで行われるのですが、根本は無刺激状態を作り出してそこで老人を過ごさせるのです。そうすると、老人は短時日で寝たきり、昏睡と進み、老衰死するのです。

 もう少し詳しく話します。用事があれば目の前の紐を引けば無言で看護人が現れて無言で片づけてくれる。ベッドは定期的に傾斜が変わり、床ずれができないようになっており、薄暗い明るさの中で温度、湿度管理が行われ、かすかに抽象的音楽が聞こえる以外音が聞こえないのです。

定期的に流動食を流し込まれ、トイレはすべて無刺激のおむつの取り換えですませ、体の清潔も特殊な方法で短時間に終えます。会話はありません。もちろんテレビもラジオもありません。

 患者は無刺激の環境の中で、昼か夜かもわからず、寝ているのか起きているのかもわからず、ついには生きているか死んでいるのかわからなくなり、数日で食欲もなくなり、自動的に食事、いや栄養剤を食餌としてチューブで与えられるようになり、排せつもすべてパイプで行われるようになります。

 ほぼ、数週間で死に至ります。例外的に3か月、長寿記録は半年だそうです。少しも死に手を貸してないのですが、見事な安楽死装置です。完全看護が行政の運営する「特別養護老人ホーム」しかなく、ターミナルケア施設もなかったこの時代には、家族の暗黙の了解のうちに、高齢者は苦痛なく短期間に死を迎えさせられたのです。念のために申しますが、今はもうありません。(確信はありませんが少なくとも表立ってはありません。)

 でも、私は2年前にターミナルケア(終末医療)病院で、似たような仕組みがあるのに気が付きました。末期がんやその他の病気で、死を免れない状況になった人を、苦痛なく死なせる病院です。歩ける人も全部車椅子に乗せられます。食べる喜びは感じられない病院食しか食べられません。

 たとえ下痢をしようと腹痛を起こそうと、治療は一切しないで、苦痛をとるために昏睡させられて、死に至るまで丁寧に面倒を見てもらえます。

 激しいストレスは私のような老人には毒ですが、無刺激の生活は死への早道なのです。だから高齢者が笑い楽しむ仕掛けを考えて行きたいと思っています。もちろん大阪自由大学は女性にも若い人たちにも役立つ場を作りたいと思っていますが…。 

2015年9月8日火曜日

「うめきたサロン」を開きました

うめきたサロン

 大阪自由大学は、実に多様な活動をしています。その内容はホームページでみていただきたいと存じますが、ほとんどが20~30人程度の少人数で、肩の凝らない雰囲気で行われています。私が担当する「うめきたサロン」は、9月4日(金)に初めて開きました。

 歌人の道浦母都子さんをゲストに迎え、「言葉の磨き方」をテーマにお話を伺い、会場からも色んなご質問を出して頂きました。私は歌の道は詳しくないので、専ら聞き役という形にして、会場の参加者とサロン風に展開できたらいいなと思っていたのです。ところが道浦さんのファンらしき方が沢山いらして、補助椅子を入れてやっと座っていただけるような盛況でした。

 道浦さんはお話しをされながら、私を気遣い私に喋らせようと「学長、これをどう思われます?」なんて振ってこられるので、質問役の私の方がオタオタさせられました(笑い)。でも楽しい時間でした。

 日常から相手を思いやる生活をなさっているのでしょう。「言葉を磨く」というテクニック以前に、相手を思いやり傷つけない言葉を無意識に選んで話をしてこられたことが感じられました。この点では、ビジネスの世界でわざと相手を傷つけたり怒らせたりすることまでやってきた人間とは基本的に違いがあります。あの言葉を思い出しました。

 「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
  言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
  行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
  習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
  性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。」
                    マザー・テレサ

 石川啄木が、あの美しい歌の反面、人間としてはだらしない人だったようですが、小説家でも詩人でも、自分の弱みを居直るように強みにしてゆく姿がよくみられます。しかし、道浦さんの歌には、啄木の歌が作者の実像と乖離しているのに反して、作者の姿が赤裸々に表されているように思われ、逆に昔の私には異次元の人のように思われたものです。

 うめきたサロンは、梅田の北、グランフロント北館の7階、大阪ガスの都市魅力研究室をお借りして開きます。大阪駅の北側に、エスカレータを上がってグランフロントに行く陸橋があります。あれを北に直進し、南館を通り抜けて北館に入ります。すぐ右手に上に行くエスカレータがありますが、それを通り過ぎた右側に今度は上り下りのエスカレータがあります。これを1階まで下りて直進し、広場の向こう右側にある入り口からエレベータに進み、7階まで行きます。

 非常に分かりにくい、高級な?雰囲気ですが、よく利用されているため、大阪ガスOBである私でも、2カ月に1度しかお借りできません。


 次回は11月26日(木)14時から、作家、朗読家の金真須美さんをお迎えしてのサロンです。言い訳をしますと、美女続きですが私の企画ではありません(笑い)。「幸せを演じて幸せをつかむ」の言葉を知りましたので、うまくホスト役を演じたいと思います。

2015年9月1日火曜日

ブログを開設します。よろしく。

学長のブログ始めます

 大阪自由大学の「学長のブログ」を始めます。気楽なひとりごとにお付き合いください。
 まず、自己紹介から。1935年(昭和10年)鳥取市生まれ、京都大学法学部卒、大阪ガス入社、定年1年前に神戸大学経営学部教授に転身、4年後の国家公務員定年1年前に芦屋大学教授、学長を経験、学園理事として2015年4月末まで勤務。目下幾つかのボランティア活動をしています。

 ですから、今様の言い方をすると「アラサン(アラウンド傘寿)」です。いい加減古い(笑)。サラリーマン生活を34年余過ごし、普通ならここで定年引退するところ、さらに20年余きちんと働いてきたのですから、同級生には変わり者扱いされているみたです。

 私自身は、普通にサラリーマン生活をしてきたつもりですが、これも同僚に言わせると、まともなサラリーマンではなかったという評価が少なくありません。今考えてみると、たしかにサラリーマンとしては「はみ出し者」であったかもしれません。

 用地関係の仕事でヤクザに脅されたり、新規事業開発で「扇町ミュージアムスクエア」をつくったり、中国の改革派を助けて新疆ウイグル自治区の近代化構想作成に関与して、危うく天安門事件にまきこまれかけたり、環境問題で人類は滅亡する危険があると東京や大阪で裁判劇を公演したり、確かにはみ出し者的ではありました。

 まあ、そういう話はおいおいお話しするとして、80歳になろうとしている今、私はいったい何に関心を持っているのでしょうか?先日私が理事長をしている子ども園の研修があり、ここで面白い手法に出会いました。「自分が大切に思っていることを5つ書き出しなさい」というのです。

 家族、友人、仕事、大阪、鳥取。私の5つです。リーダーとジャンケンして、負けかアイコになったら、1つ削れというのです。3勝1敗1分けで、大阪と鳥取が消えました。研修リーダーは5つの項目を皆に披露して、そのうち二つが削られた感想を話して下さいと言いました。この大阪と鳥取は、勤務先、暮らしてきたところとして、住みやすい魅力的なところにするにはどうしたらよいか、考え行動したいという意味なのです。

 ところがこの二つが消えたら、意外にも「気が楽になりました!」 
 私にとっても正直に言って意外なことでした。周りの人に私と言う人間が何を考え、何を大切に思っているのかを知ってもらうとのが目的の手法ですが、自分自身を見つめなおすのにも、面白いやり方だと思いました。人によっては、子ども、両親、主人、健康、おかねという人もいました。ああ、旦那より子どもが大事なのだと思わずご本人の意図とは違うことに関心が行ったりして、なかなか面白い手法でした。

 なくなれば気が楽になる(程度の?)問題ですが、大阪自由大学の活動はまさしく私の大事な課題です。これから気が重くなるのではなく、楽しみで、大事な場に育てて行けるように出来たらいいなと思っています。

 近く学長サロンを開きたいなと思っています。権威者が高みから語るのでなく、集まった人たちと「日常的な生活文化」のありようを皆で話し合い、理解を深める「場」ができたら良いなあと考えています。皮切りは「座ってオシッコしていますか?」を考えています。変わりつつある生活スタイル、価値観を話し合えたらいいなあと思っているのです。

 皆さんも大切なことを5つ書き出して、1つずつ消してみてください。