2016年10月24日月曜日

さくまう(作間ふ)

 鳥取市の南部、岡山県境に佐治(さじ)というところがあります。中国山脈の北側の谷間で佐治谷と呼ばれます。司馬遼太郎さんの「街道を行く」(全43巻)の第27巻「因幡、伯耆のみち」の冒頭に、極めて個性的な佐治出身のお医者さんの話が出てきますが、昔は交通不便な土地柄からか、かえって個性的な人物が輩出されるところでもありました。

 ここには「佐治谷のだらず話」があります。「だらず」とは「バカ」の意味で「足らず」から来ていると言われます。例えばこんな話です。「佐治の男が湖山池を見てその広さに驚いて『日本は広れえなあ』と感心した。するともう一人の男がこう言った。『だらずだ!日本はこの池の3びゃあ(倍)はあるわい。』湖山池は鳥取の西にある日本最大の汽水池です(広さ6.99㎡)。

 私には佐治出身の義理の兄がいました。大好きな人でしたが、数年前に亡くなりました。この兄から不思議な方言を聞きました。「さくまう」、旧仮名遣いで書けば「作間ふ」です。農繁期の間の農閑期が「作間」ですから、次の農繁期に備えて農閑期に段取りをしておくことを言うのが原義だと思うのですが、佐治の方言では特化した内容になっています。


 何か仕事をする前にトイレに行っておく、大を出しておくという意味で使うのだそうです。なんとも良い表現です。気に入ってしばしば使用しています。子供たちにも「出かける前にちゃんと作間っておけよ」と言えばスマートに聞こえます。昔の僻地はもう便利になっていますが、まだ都会風に汚染されぬ良さがこの佐治谷には残っていて好きなんです。

鳥取(東部)地震

10212時過ぎ、私は本町のあるビルの3階に居ました。突然事務所中に警報音が響き渡り、スマホが鳥取中部地震の緊急情報を伝えました。間もなく部屋はゆらゆらと揺れ出しました。震源は鳥取県中部、倉吉市と私の本籍地である湯梨浜町付近だと言っています。親せきや知人の顔が次々と浮かんできて、すぐ電話をしましたがつながりません。

不意に私が国民学校2年生の1943年(昭18年)に起こった鳥取大震災(鳥取東部地震)の悪夢を思い出しました。私の命拾い第1回の経験です。その日は91017時半頃。「20世紀梨の初物を受け取りに来て」と、おなじみの八百屋のおばさんが私に声をかけてきました。私は兄とともに床下に生まれた仔犬を引っ張り出したところでした。

門前で防火用水用のバケツに梨を入れ、引き返そうとしたとき、突然ゴーという地鳴りと土煙があがり、私はひっくり返りました。おばさんのリヤカーの上に前の家の小屋が倒れかかるのがチラと見えましたが、直ぐ何も土煙の中で見えなくなりました。それからの記憶は断片的です。母親らとの再会も、八百屋の娘さんの母親探しの来訪もぼんやりしています。


 約1時間後「どこにも居ない」と泣きながらまたやって来た八百屋の娘さんに、前の小屋の下敷きになっているとやっと話せました。総動員で掘り出したおばさんは即死状態だったそうです。母に厳しく叱られました。早く皆に言えば助かっていたという状況なら、一生お前はその重荷を担わねばならぬところだった。「男の子ならもっとしっかりしなさい!」と。

食べてすぐ寝ると牛になる

 私の両親は諺(ことわざ)や格言が好きで、日常生活でもよく使っていました。母親の場合は、子どもの頃に子どもがいない本家の養女に出されたこともあって、諺好きの実父と実母が日常的に使っていた諺を思い出して身に着けたようです。父は一ひねりしたような格言や、有名な句を捻って遊ぶのが好きでした。

 兄も私も格言好きになり、ずいぶん得をしました。有名な百人一首に出てくる藤原の実定(さねただ)の歌「ほととぎす 鳴きつるかたを 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる」を一ひねりした歌「ほととぎす 鳴きつるあとに 呆れたる 後徳大寺の 大臣(おとど)の顔」が好きでした。私の座右の銘も親譲り。「沈香(じんこ)も焚け、屁も放け(こけ)」

 沈香はジンコウより「ジンコ」と読まれることが多い香料で、高級品の伽羅(きゃら)が有名です。要は香を焚くような高尚なことも、屁を放つような下品なこともやる幅のある者になれということです。一方母からは、「食べた後、直ぐ横になると牛になる」とよく叱られました。食後直ぐに寝るのは行儀が悪いという意味としてずっと理解していました。


 最近、食後に直ぐ横になるのは、健康に良くないのだという医学記事を見つけました。食後すぐ寝ると血糖値が急激に上昇し、繰り返していると糖尿病になりかねないのだそうです。へえー、行儀の問題だけじゃないのだと、別の諺を思い出しました。「親の意見と茄子(なすび)の花は千に一つも仇はない。」(この「意見」は小言(叱言)の意味でしょう。)

故郷の廃家

 「幾年(いくとせ)ふるさと来てみれば/咲く花啼く鳥そよぐ風/門辺の小川のささやきも/なれにし昔と変わらねど/あれたる/わが家/住む人絶えてなく」アメリカのウィリアム・へイス作曲の「My Dear Old Sunny Home」に犬童球溪(いんどう・きゅうけい)が作詞して1907年に発表された歌です。私が子供の頃にはよく歌われたものです。

 私の故郷は鳥取市です。本籍地は、鳥取県東伯郡湯梨浜町はわい長瀬。「日本のハワイ」と呼ばれた羽合温泉で有名なところです。古くは伯井田(はくいだ)という地名が、秀吉の時代頃には「羽合田(はわいだ)」に変化したもののようです。ここに大地主であった祖父が大きな屋敷を建てていましたので、私たちはふだんは鳥取市内で借家暮らしでした。

 終戦後占領軍が出した農地解放令により地主であった祖父は没落して、その大きな屋敷は取り壊されて敷地は人手に渡りました。小学生時分には、私は夏休みや冬休みにこの広い家で過ごしたものです。しかし、歌の歌詞のように残っているが誰も住まなくなった廃家になっているより、姿を消してくれている方がさっぱりして良いと思っています。


 村の様子もすっかり変わってしまい咲く花も啼く鳥も、変わりました。一番変わったのが小川の様子です。周りの農家は井戸がなくてもこの小川で食器も汚れものも皆洗っていました。流れも透明でした。今は水道が引かれ、川の水も暗くよどんでいます。多分に感傷的なこの故郷の廃家を歌う雰囲気は、今ではどこにも残っていないように思えます。

私の父の生涯

 親父は京都帝国大学経済学部卒業でした。これは我々兄弟にとっては大きなプレッシャーでした。京大を出なければ一生親父に頭が上がらないぞと脅されていたからです。後でわかったのですが、親父の時代は、旧制高校は結構難関だったが、大学は無試験だったのです。「脅かして学費の安い国立に行ってもらおうと思っただけだ、ワハハハ」でおしまい。

 米糠3合もあれば婿養子には行かぬものと悪口を言われながら、農村の大地主の婿養子にやられ、県庁の土木部雇い(今の臨時雇い)から始めて、鳥取大震災の後片付けを経験し、兵事厚生課長という妙な組み合わせの仕事をして終戦を迎えました。進駐軍に対応するため戦後は渉外局長に抜擢され、苦労をしたようです。

 鳥取のような地方では、情報不足でどんなことか起こるか予測できないため、監獄から応召した犯罪者により組織された部隊が、偵察隊として派遣されていたようで、無茶な要求が出されたそうです。渉外局長の親父は「OK!OK!放っておーけー」と怒鳴ったようです。しかし進駐軍の要求は常識を超えて次々エスカレートしたそうです。


 「この要求はあなた方も承知の上か?!」とGHQへの親父の怒鳴り込みを待っていたように、犯罪者部隊に代わり紳士的な部隊が進駐してきたそうです。こういう話をもう少しきちんと書き留めておくべきでした。民選知事制度が始まると県庁を辞めて、GHQに追放された地方紙の社長に代わって「雇われ社長」になり、還暦の3日前に亡くなりました。時代に酷使された一生でした。

待機電力退治の抜け穴

 今ではあまり話題になりませんが、昭和末期にはスイッチを入れるとすぐにテレビの画面が現れるような便利さを優先させるため、電気器具の不使用時でもずっと少量の電機を流し続ける仕組みが常識になっていました。特にテレビ、電気蓄音機などは使う時間がわずかでも、眠っている大半の時間でもこの「待機電力」を使い続けていたのです。

 この待機電力退治をどうすればうまく進められるかが問題でした。メーカーを含む企業の協力で運営されている公益的団体で私が責任者になり待機電力退治をすることになりましたが、実態をいきなり公表すれば、企業側から反発が出るのは必至です。そこで昔「暮らしの手帳」が、電気器具の比較テストを発表したやり方を少しヒネルことにしました。

 冷蔵庫やテレビなど主要機器の待機電力量を調べ、各社にそれを送って、「待機電力を減らすために、まずこの現状の数値を発表させてほしい」とお願いしたのです。すぐにS社から反応がありました。「1年間猶予下さい。その間に待機電力を減らした新しい改良型機種を創りこれを発表するので、その改良した数値と併せて発表していただけませんか。」


 この提案を各社に示すと全社がご了解くださり、待機電力減らしに各社が努力をされ、1年後に大きな成果が生まれました。ところがガス湯沸かし器は種火方式から電気スパークに着火方式を変えていたのを見落としていて、さらに電動歯ブラシなど中小企業製品が依然として待機電量垂れ流しであることに当時は気づかなかったのです。スミマセン…。

ブラジル訪問の思い出

 パラリンピックも終わりましたが、会場だったブラジルにはそう簡単には行けません。私は25年くらい前に一度だけ行きましたが、アメリカのロスを経由して丸一日以上かかりました。リオに着いてまずコルコバードの丘に立つキリスト像に感心しました。9.5mの台座を含め高さが39.6mもあり、1931年に独立100周年記念として創られたのだそうです。

 私の生まれた時より4年前ということと、ニューヨークの自由の女神像と同じくフランス製で頭までの高さが同じくらいということで記憶が残っています。ここから海岸沿いに西南に日本人が多いサンパウロがあり、さらに西南にドイツ人移民が多いクリティバという町があり、そこに行きました。放射線状に道路が広がり、中央に市役所がありました。

 蜘蛛の巣状の町には電車はなく、縦糸状の道と環状の道にそれぞれバスが走っていて、道に迷うことなく目的地に行けたのに感心しました。日本人のお役人がいらっしゃったのには驚きましたが、おかげで事情がよくわかりました。勧められてここから西のイグアスの滝とその上流にある巨大な(世界2位、1400㎾)イタイプー発電所を見学しました。


 イグアスの滝はブラジルとアルゼンチンとパラグアイの3国の国境の交差点にあり、その上流パラナ川にあるイタイプー発電所はパラグアイとブラジルの共同のものでした。大きなダムで水没した場所に住んでいた動植物が、「環境難民」として保護されて、新しい住処を創ってもらうのを待っていました。狭い日本の常識外の世界が広がっていました。

2016年10月10日月曜日

海水浴場監視員をやりました

 私の故郷、山陰の海岸は、お盆が過ぎると土用波が立ち、クラゲが出現して泳ぎに適さなくなります。私の中学から高等学校2年までの720日から815日までの夏休みは、大概海で過ごしていました。痩せの大食いでした。さほど泳ぎが達者というほどではなかったのですが、先輩に言われて海水浴場の監視の手伝いもやっていました。

 海で櫓船を操れる生徒はそう多くはありませんでしたので、それを買われたのでしょう。ある時監視員の訓練がありました。溺れる人を助ける訓練です。山陰海岸特有の島の間の深い海で、溺れ役の先輩を10m程度離れた島に助け上げるのです。島の上から、船の上から、あるいは泳ぎながら、といった色んな状況に合わせて救助活動訓練をしました。

 原則は浮きや板を投げてそれに溺れている人をつかまらせるのですが、遠くから浮きや板を投げてもうまく行かないので、ロープを投げる訓練もします。大きい輪、小さい輪を交互に作って巻いたロープを、アンダースローで投げて、溺れている人に捕まらせる訓練が、技術的には一番高度な感じがしました。一番野蛮なのが溺れる人を直接救う方法です。


 溺れている人にうかつに近づくと、しがみつかれて一緒に溺れることになります。訓練では溺れ役の先輩に何度も海中に引き込まれてひどい目に遭いました。溺れている人の後ろから近づき、場合によれば海に突っ込んで弱らせてから助ける野蛮な訓練でした。現実に何人か助けましたが、溺れる人に直接手を出すことは一度もありませんでした。

ふたりの伝道者

終戦記念の日、NHKスペシャルで表題の番組が放映されました。一人は真珠湾攻撃の指揮官であった日本軍人。英雄扱いから終戦後には戦争犯罪人扱いにされて人間不信になります。もう一人は真珠湾攻撃をした日本人を憎んだアメリカ軍人です。名古屋空襲時に民間人を機銃掃射し、撃ち落とされ日本の捕虜になり、ますます日本人嫌いになります。

聖書のルカによる福音書第23章第34節にこういう話があります。『罪のないイエス・キリストを「十字架にかけよ」と叫ぶ群衆に対し、イエスは怒るどころか神様に対して「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」この聖書の箇所を読んで、この二人はキリスト教の伝道者になったという感動的な話でした。

 相手を殺したいほどの憎しみが、相手をゆるして下さいと神に祈れるような大転換が起こること自体が不思議な話ですが、これが宗教の持つ不可思議さでしょう。私は公益法人生命科学振興会に属していますが、ここの生命科学とは「生命を自然科学的観点だけでなく、宗教、哲学、社会科学、人文科学の視点も含めて考えること」になっています。


 日本人は外国人に「あなたの宗教は?」と聞かれて、「無宗教」と答える人が少なくありませんが、私はもっと日本人の宗教観を日本人自身が説明できるようにすべきだと思っています。もう一つ、終戦後のこの71年間に内乱や戦争状態を経験しなかったアジアの国は、ブータンと日本の2国だけだということをもっと大切に想い、感謝したいと思います。

なぜ村人は満州へ?

 終戦記念日の前日、NHKスペシャルは表題のテーマを放映しました。昭和10年前後から、食料増産という国策のために、当時日本の軍隊が支配していた満州に、日本の農民を家族ぐるみ送り出す事業が始められました。敗色濃厚となった昭和18年、19年まで続けられた結果、ソ連が国境を越えて攻撃して来た時に農民たちは集団自決に追い込まれました。

 国策に協力して農民を個別に説得して満州に送り出したある村長さんは、責任を感じて1年後に自害したのです。開拓に入った土地は満州の人たちの農地を強制的に買い上げたところも多く、開拓農民は地元民から強烈な反感を抱かれていました。日本の関東軍は敗色濃厚な南太平洋に軍人を送り出し、満州は日本の開拓地は高齢者と女性と子供だけでした。

 私の国民学校には、6年尋常科修了後の2年制の「高等科」があり、これを終わる今でいえば中学2年修了生の中から、志願制の名目で毎年「少年義勇隊」が満州に送り出されていました。「海越えて行く若人よ/待つぞ大陸微笑(ほほえ)みて/山河は大に野は広く/これぞ理想の新天地/行け行け少年義勇隊」。私たちは無邪気にこう歌って送り出しました。


 老人と女、子どもだけになった開拓農民を助けるための方策だったのでしょう。おそらく15歳前後の子供が、ソ連軍の侵攻や地元民の襲撃で役に立った筈はありません。彼らはどのような生活を送り、どのような終戦を迎えたのでしょうか。今でも気になります。一旦決められると、事態が変わっても国策を見直ない行政体質は変わっているでしょうか?

2016年10月9日日曜日

痔を病んだ大仏さま

鎌倉の大仏様が数か月に及ぶ全身の点検を無事終えて、清掃も行われたという記事をこの春に読みました。この大仏様は鎌倉で唯一の国宝ですが、1252年頃に建立されたもののようです。当初は大仏殿に収められていたのが、台風で大仏殿が倒壊し、さらに数年後に大津波が襲って大仏様まで押し流されたのだそうです。

それで現在のような露仏になり、動かぬように固定されたもののようです。これは以前に東海大学のY教授にお聞きした話ですが、昭和30年頃にお寺から東大の材料研究所に相談があって、大仏様のお顔が急に変わったように見えるので原因を調べてもらえないかとのことだったそうです。それで一番新参のY先生が命じられて現場に行ったのだそうです。

お坊さんが口をそろえて、ある日突然大仏様のお顔が従来と変わったと訴えました。従来の顔を知らぬY先生には、雲をつかむような話で、困った挙句全身をくまなく点検したら、大仏様を固定するために鉄の杭が大仏様の後部に打ち込んであり、それが露仏さまですから雨露に濡れて錆が大量に発生して、大仏様のお尻を押し上げていたのでした。


大仏様の身体が前傾したためお顔の印象が変わったと判明したので、Y先生は手当てをしたうえで「大仏様が痔を病んでおられました」と報告して、不敬であると叱られたのだそうです。でも「大仏様痔を病む」と新聞に書いてもらってたらポケモン探しよりたくさんの参詣人が集まり、治療跡を見て大仏様好きが増えたのではないでしょうかねえ。

中学生ふたりが熊本の被災地で桃を配った!

 某民放のニュースを見ていたら、山梨の女子中学生二人が熊本の震災被災地で桃を無償で配っている光景が出てきました。何でも震災直後から被災地の人たちを支援する方策はないかを考えて、いろいろ資金を作りために苦労して、車で現地に運んで配ったのだという報道でした。もらった熊本の人たちは、桃の匂いで元気が出たと喜んでいました。

 良い話だなとは思いましたが、私には釈然としないものがありました。何個の桃を熊本まで運んだのかは報道されませんでしたが、車で山梨から運んだというからには、相当の数であっただろうし、中学の女の子だけでできる話ではありません。資金にしても相当な額になったはずですし、寄付だけでなく大人たちが様々な支援をしたに相違ありません。

 こういう活動によく関わっている山梨の知人にメールしてみると、案の定報道のニュアンスとは違っていました。震災の3日後にこの女子中学生たちから相談を受けた大人たちが、この女子中学生たちに大きな負担がかからないように知恵を絞り、桃の配布を考えついて目標金額を決め、様々なイベントを行って資金を作り、段取りをしたものでした。


 二人の女子中学生が報道されれば、支援話は報道されなくても大人たちは構わないとのことでした。でも女子中学生だけの報道は極めて不自然で、故に感動も乏しいのです。二人が相談したので大人たちがフルにサポートし、彼女たちを表舞台に立たせたと報道して、初めて感動的な話になるのです。報道は縁の下に光を当てるのも大切な仕事なのです。

外食券が必要だった時代

 外食券という代物があった時代を知る人は、もう結構な年寄りです。私が大学に入った1954年(昭和29年)には、米や外食券がないと外食が出来ない時代は終わっていました。それ以前には、出張時にも米を持って行かなと宿でごはんが出してもらえない時代があり、靴下にコメを入れて目立たぬように鞄の下に詰め込む父の姿を覚えています。

 しかし、まだ外食券があると5円か10円安くなる時代でした。蜆汁だと喜んでよく見たら自分の目が映っていたのだったなどという冗談が通用した薄いみそ汁が12円、外食券なしのメシが11015円、おかずつき1食が30円前後、1日の食費が100円、1か月の食費が3000円という時代でした。100円出すとナイフ、フォークで洋食らしきものが食えました。

 姉と結婚する前の義兄を学寮に泊めたお礼におごってくれたのがチーズグラタン。250円出すとこんなにうまいものが食えるのかと感激した覚えがあります。小学校6年の時担任だった先生を訪ねて大学1年の夏休みに北海道に行ったとき、1万円で1か月乗り放題の国鉄の切符を買ってゆきましたが、冷夏の北海道は食うものがなく往生しました。


 先生に釧路で160円のラーメンをご馳走になりましたが、晩御飯代わりに十分満足し、世の中にはうまいものがあるのだと、オーバーに言えば「生きる喜び」を知った最初の経験でした。そうです。当時は腹いっぱいメシが食えることが何よりも幸せなことであり、快適で便利になれば人は幸せになれるんだと単純に信じられた時代でした。

純粋な考え方の危うさ

 私は終戦時に価値観の大転換を経験して以来、純粋に一つの考え方を信じることが出来なくなったことを、以前ここに書きました。その考えを後押ししてくれた人が二人います。一人は大学の1年先輩の政治学者・故・高坂政堯(こうさかまさたか)さんです。天才肌の人で私のような凡才の近寄り難い存在でしたが、明確に教えてくれたことがあります。

 それは、「例外のない原則はない」「ある真実はその背景事情如何で成立しなくなることがある。」ということでした。だから、盲目的に何かを信じる前にいろんな吟味をしてみることに意味があると自信を持って言えるようになったように思います。この原則を成立させている要件は何か?と問いかける余裕を持たせてくれます。

 もう一人は私の私淑している故・山本七平さんです。私より14歳も年長の評論家でした。まるで私が信じて来た価値観を彼はいとも簡単にひっくり返してくれました。ユダヤ人の世界では「全員一致の事柄は無効になる」、「水と安全は極めて高価なものである」といったことに始まり、中国の古典から旧約聖書の時代まで実に広い知識をお持ちでした。


 山本さんご夫妻と親しいお仲間のイスラエル探訪に無理やり1週間同行させていただき、旧約聖書の歴史、思想を現地で学ばせていただきました。単なる神話の世界でなく、どういう時代背景からどういう思想が生まれたのか、学校では教われないことを学びました。お二人とも残念ながら「佳人薄命」。馬齢を重ねている私は、とても残念に思います。

保育園落ちた。日本死ね!

「保育園に落ちた。日本死ね!」投稿されたこのツブヤキのひと言が多くの人を動かしました。一億総活躍社会というけど、ちいさな子供を抱えて、保育園に入れてもらえなかったら、食べることさえできないじゃないか!これに共感した人たちが声を上げ、行動を起こしました。わずか1か月の間に国会でも取り上げられ、大きな問題提起になりました。

「日本死ね」とはいかがなものかと、批判する人もいました。多くは高年齢の子育てを終わった人たちでした。子供が出来ても働きたい、働かなければ食べて行けない、こういう切実な状況にストレートに共感した人と、反応に差がでたのは、仕方がないことだったかもしれません。批判層からも、理解をしようとする動きが出て来たのは何よりでした。

実は私は幼稚園に保育所を併設した認定子ども園の理事長をしています。定員100名ばかりの小さなところです。保育園の入園可否は、市町村が決定権を持っています。若い夫婦が多い地域では、共働きを希望する人が多く保育園に入れない「待機児童」が増加していますが、園も行政も「では収容人員を増やしましょう」とは簡単には言えません。


まして私のようなオーナーでなく、単なる無給の助っ人である理事長は、社会的要請があるから事業を拡大しようというような危険は簡単には冒せません。しかし、そう言い訳だけして何もしなければ、「日本死ね」を批判するだけと同じことになります。労働条件を良くし、良い保育ができる環境にすることに努め、定員を増やす方法にも悩んでいます。

2016年10月8日土曜日

暮らしの手帳でホットケーキ

 NHKの朝ドラ、「とと姉ちゃん」に出てくる「あなたの暮らし」という雑誌は、言うまでもなく「美しき暮らしの手帳」という1948年(昭和23年)9月に創刊された雑誌で、5年後には「暮らしの手帳」に改題されたものがモデルです。私は終戦時が国民学校(小学校)4年生でしたから、中学生の頃にはよくお世話になりました。

 昭和8年生まれの姉を頭に、同19年生まれの妹まで6人の兄弟姉妹の3番目、次男でしたから、姉兄妹弟すべてが揃っていました。食うものがない時代でしたから、この暮らしの手帳に教えられてホットケーキを作ることを覚えました。コメの代わりに配給される小麦粉で、スイトンを作るのに飽き飽きしていた時に、ホットケーキは新鮮でした。

 小麦粉に牛乳と卵を入れて作るのですが、米の代わりに配給された茶色いキューバー糖と塩少々を入れます。市販のコッペパンも腹に溜まって良かったけれど、希少品のバター(進駐軍の放出物資)を入れると格別味も良くなり、腹持ちも良くなりました。コメのメシでない代用食さえも食えないで、昼ごはん抜きが珍しくない時代でした。


 編集長の花森安治さんは1911年神戸生まれの人で、ドラマに出てくるほど変わり者だったかどうか知りませんが、確かにスカートを穿いている写真を見たような記憶があります。66歳で亡くなっています。この頃と違って今は飽食の時代ですが、私はそんなに遠くない先に、世界は人口増加によってまた食料不足になるのではないかと懸念しているのです。

盲目的に信じられなくなった

ISの過激思想に憧れる10歳代の少女がフランスで後を絶たないと新聞が報じています。現代は信じられるものがないから、余計若い層に原理主義的な価値観に染まりやすいのだと言われます。残念ながら軍国主義的教育の中で優等生を目指した私は、国民学校4年生(9歳11か月)で終戦を迎え、信じていた価値観が一気に崩れ去る経験をしました。

 抽象的な理念の崩壊より、それをかざして小学生の私たちを教えた教師が、終戦後見事に転向しているのを見て、人にも理念にも信じる気がなくなりました。戦時中は、態度が悪い生徒を皆の前で殴って鼻血を出させていた若い男性教師が、私が戦後に疎開先から元の学校に戻ってみると民主主義をまじめに教えていたのには興ざめました。

 軍国主義的な考えはもうたくさん。戦後の混乱期に間もなくソ連軍がやってきてお前らは粛清されるぞと怒鳴った何とか思想もイヤ。さりとて民主主義を信じる気にもならないというのが、正直な気持ちでした。人を信じるのも簡単にそういう気にもなりませんでした。それを若い新人の先生が無邪気に楽しく接してくれてその気分を一掃してくれました。

 長じるに及んで弟妹を教えてくれているあの拳骨をふるった先生が、悪い人でないとわかり、複雑な思いの中で人間や思想への信頼を少しずつ取り戻し、現在は8~9割信じても、1~2割はそうでないこともありうるという妙な信じ方が身についてしまいました。盲目的傾倒をどこかで避ける自分を8~9割肯定しつつ嫌な奴だとも思っているのです。