2015年10月5日月曜日

変わりゆくトイレ

 「あんたの話は、生きるの死ぬのと言った途端にトイレの話に変わる。ついて行かれへんわ。」古い友人がブログを見てこう言って笑いました。「トイレに行きたくても行けなかったら、死にたくなるやろ。」と茶化しておきましたが、実際トイレは時代によってずいぶん変化しています。十二単(じゅうにひとえ)の重い衣装を着ていた平安時代の女性は、どうしてトイレに行ったのでしょう?江戸城に詰めていた大名は、長袴(ながばかま)を穿いていましたが、前にチャックもボタンもありません。どうやっておしっこをしたのでしょうね?

 私が聞いたところでは、蓋付きの箱、おそらくは漆塗りのものを裾から滑り込ませて、衣の上から蓋を取り、用を足してから蓋をして下から取り出したのだそうですよ。そういえばウンコのことを「ハコ」と呼ぶ地方がありましたが関係があるのかな?専門家でないのでわかりませんがね。

 江戸城のお大名は、茶坊主に耳打ちすると、茶坊主はお供の控え室近くで「井伊掃部頭(かもんのかみ)様御用!」と呼ばわり、呼ばれたお供の者は縁側の外で膝をついて筒をささげる。掃部頭は縁側で長袴の右か左かをパッと蹴り出し、お供が下から差し入れる筒を局部にあてがい、小便をしたのだそうです。いやはや大変ですな。これもトイレに行くのを「用を足す」とも言いますね。頻尿症だと隠居をせざると得なくなるでしょうねえ。

 庶民にとっては、便所は戸外にあるもので、下駄を履いて行くところという時代が長かったようです。商家の屋敷では家の住居部からは別棟として台所や風呂場や便所などを取り付ける「下屋出し」の方式で作られ、これが明治以降次第に広まったようです。「雪隠の/屋根はおおかた/への字形(なり)」の古川柳にあるスタイルです。ここでも便所履きがあるのが普通でした。この下屋出しは水を使う場所で行われ、早く痛むので母屋(おもや:主棟)より早く修理と建て直しをしたようです。便所は水洗いするのが普通でしたから。

 便所履きをなくする試みは昭和30年頃の住宅公団の団地で始まりました。トイレと風呂を同じ部屋にする欧米型の1DKが作られたのです。しかし、これが不評で結局このスタイルは広がりませんでした。こういう伝統というか習慣を変えるのは結構大仕事です。トイレに水を流すのは、古来「ケガレを洗い流す」必要があったからです。「洗う」は「あらふ」=「新ふ(新しくする)」です。結論から言うと、日本の住まいは雨の多い気候から履物を脱いで家に入る方式が基本にあり、江戸期に畳が一般化すると、廊下履きを脱いで上がる一段上のランクの場所になりました。
その結果、⑤戸外・便所、④廊下、③畳、➁食卓、①食器という無意識のランク付けが出来上っているのです。茶碗布巾で食卓を拭いてはいけないし、食卓布巾で畳を拭いてはいけないのです。当然雑巾の世界の風呂と下(しも)雑巾の世界のトイレを一室にするのには大きな抵抗があるのです。ところがそのトイレが水洗方式になり、お尻洗い(ウォッシュレット)が導入されたとき、トイレ履きがだんだん不要になりだしているようなのです。

 昭和期のトイレは大概タイル張りでした。床や壁に水を流して洗うのが掃除のやり方だったからです。それがウォっシュレットの普及に並行して板張りになってきました。洗うのでなく拭くか、じゅうたんを敷いてそれを洗うかを前提にし出したのです。ただそれには男の人に跳ね返りのないおしっこの仕方をしてもらわなければならないのです。前にこぼさないようにするだけでなく、便器から跳ね返らないようにしてもらわなければならないのです。

 以前の男子用小便器は全面の便器の壁に向けて小便をする形であったのですが、壁から約12cmの距離から水を飛ばすと跳ね返らないのだそうです。でも、このウォッシュレット型の便器はかなり上から落下させる形であるため、座ってやらない限り跳ね返りが避けられないのです。まだ座って小便をする人と立ってする人の割合を調べた調査は出ていませんが、かなり数の男性が座っておしっこをしている(することを強いられている)のです。

 先日小林一三さんの旧邸を拝見したら、風呂の中に洋式便器がありました。聞いてみたけどいつからこういう形になったのか、係員の方も知らないということでした。

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